2014年9月6日土曜日

インドから帰ってからのコンポスト考(1)

 インド滞在から帰って、あれこれ考えすぎてしまったわたしは、放心状態でなにも手に着かない日々を送っていた。地に足をつけるきっかけを探すなかで、身近なところで、『自分の食べたいものを作るよろこび』を思い出し、なぜか和食ではなく、あれだけ食べたインドカレーを毎日作るようになるのだが、さっそく問題発生。そこで出た野菜くずを捨てるのが苦痛になった。皮や茎をできるだけ食べても、玉ねぎの皮、トマトのヘタなど、どうしても出る。実は、家族が出す生ゴミを見るのも、久しぶりにショックだった。

 インドにいる間、ごみについては本当に考えさせられた。常につきまとった。とくにプラスチックごみが散乱する状態は強烈。プラスチックごみが《どこにもいかない》のだという当たり前なのに『クリーンな日本』では見えにくい事実を突きつけられた。先に便利なものを使わせてもらったわたしたちが変わらない限り、彼らにそれを使うのを止めよというのは無理だ。責任があるなと思った。

 ところがだ。路上に紙ごみ、プラスチックごみがわんさかしている恐るべき光景が広がるインドでは、《どこかにいく》ごみがあった。いわゆる『生ゴミ』と呼ばれる野菜くずや食べ残しは、意外と土に還ったり廻ったりしていた。放っておけば当たり前、といえばそうだけれど、良い悪いを超えて、なかなか勉強になった。

 南インドのチェンナイでは、例えばスイカを食べたとき、裏庭があればそこに窓からポイッと投げて自然に還したり(笑)、お世話になった家庭では、バケツにごはんのとぎ汁を入れていたので、さすが水を大切にしてる、エコじゃん!と思い「植物にやるの?日本でもよくやっているよ!」と言うと、「牛にやるのよ。果物の皮とかいれてね、飲み物を作ってやるの。」なんと、バナナの皮などを米のとぎ汁に入れ数日寝かせて発酵させたものを、朝におなかをすかせて玄関先にやってくる牛たちに振る舞っていたのだった。驚きだった。「栄養があるのよ。」とアンティは言っていた。ほかには、街中ではその職業のひとが手押し車で生ゴミを回収しているのを何回も見かけた。また、フォートコーチンでは木曜に生ゴミ回収車が走っていた。生ゴミの行き先を尋ねなかったことを後悔している。

 そしてインドでは食べ残しが少ないように感じた。そもそも庶民の家には冷蔵庫がなかったりする。冷蔵庫があっても、日に1度2度停電したりする。牛乳や野菜は、その日に使う分を量り売りで買い求め、使い切る。保存食は漬け物くらいで、ほとんど作り置きをしない。残飯は犬や牛がおこぼれにあずかる。飼い犬のカルパはチャパティが好物。残ったごはんはあまり食いつきがよくないが、木からリスが降りてきて、口いっぱいにごはんを詰めて素早く駆け上がり木の上でモグモグ。スイカの皮は、ときに塀の上で乾かされる。乾かすという名目のうえに、カラスにつつかせてやる。翌日にはその皮はつつかれ、少しひからびて小さくなり、裏庭行きになる。ココナツの外側の繊維質な皮は、とっておく。屋外で火をおこすとき、着火材に使われる。有機ごみについて、アンティはかなり優秀なひとだった。
 
 道端にあらゆる種類のごみが山になっていることももちろんあった。生ゴミもあれば便器までころがっている。チェンナイでは牛たちがゴミをあさり散らかして、いっしょにビニール袋も食べてしまうような状態。赤土の道に捨てられたごみは、還るものは還ってゆく。しみこんでゆく。しみこまないときもある。大雨が降れば、道は川のようになるのだ。昨日まであそこにあったお菓子の袋が、薬のチューブが、犬の糞が、全部水の下だ。そこを、サンダルが流されないようにと、裸足で歩くこともある。フォートコーチンで見た、普通の暮らしがあるところの用水路はとんでもなく緑色で、ときには黄色、強烈なにおいを放つ。ぎょっとしつつも自分の中に、そうだよなと受け入れる気持ちがあるのが発見だった。なにがどうなってるのと思う反面、ただ、どんなに環境が悪くても、一応自然に戻るものは戻る環境ではありますよね、と考えさせられた。日本は、どうなっているのさと。見た目クリーンではあるけど、日本は、胸を張ることができる?

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