2014年9月29日月曜日

Memriseで単語を脳に刻み込む

言語を習得するのに欠かせない、単語の記憶。テクノロジーが手助けしてくれたらと思い、探していたときに見つけた記憶応援サイト、Memrise。順に、繰り返して、ランダムに復習、という、地味だけれど確実にそしてスマートに、ピンズラー式のような感じで言語の新しい記憶を固定する手助けをしてくれます。

このサイト、使用料がいりません。さらに、自分で問題をつくることもできます。なにか貢献できたらいいなと思います。

これまでのお気に入りは、Cambridge University Pressが作成した『Upper-intermediate English』。1000個の中上級レベルの英単語をトレーニングできるもの。

ほかにも日本では学びにくいマラヤラム語などのアルファベットや単語も、勉強することができて興味と可能性が広がります。

今回は英語の語源を覚えたいと思い、学習法を考えたところ、Memriseにないかしらと思いつき、いくつかコースを発見。試してみると、これが奥深く、楽しい。
http://www.memrise.com/course/63096/50-basic-roots-for-english/
http://www.memrise.com/course/298266/prefixes-roots-suffixes/

昨年ひょんなことからスペイン語をかじって、「これはずるい!」と英語、スペイン語、イタリア語などのことばの近さに地団駄踏んでジェラシーを覚えつつも、スペイン語の単語へシノプスが広がるわくわくした感覚が、語源学習でよみがえりました。私のものすごく少ないスペイン語のボキャブラリーでも、あ、あれか!という再発見があり、どちらも鮮明になるのだから、おもしろい。

パズルゲームのような単純なゲームで遊ぶなら、言語の単語を覚えるゲームをおすすめ!って日本語の漢字やらを磨けばって?おっしゃる通りでございますが、漢字で、へんとつくりを知っているとほぼ読めて、だいたい意味も察しがつくように、英語の語源を知ると、だいたい読めて、察しがつくようになる模様。大胆にも、「英語も日本語もどの国のことばもそんなに変わらないじゃあないの」と親近感がぐっと上がります。なにかを学ぶ上で欠かせない、あるものを活かす、自分サイドに持ってくる、引き寄せ感、応用力を養おうじゃないですか。

2014年9月28日日曜日

すべての子どもにしてやりたいこと

私は愛着障害で、子ども時代を、人生を、棒に振りました。いまもそれに向き合うのが難しく、ときどきこんがらがります。

『自分のために勉強する』という意識が持てなかった残念な子どもだった私は、おうち学習が苦手でした。宿題をするというタスクがこなせませんでした。そして勉強の方法は、学校の授業をよく聴くことと、進研ゼミなどの教材をパラパラとみること(問題集はやらない、赤ペン先生は提出しない)。なんと残念なことでしょう。高校時代には、学校の授業に中身がないことを嘆いていました。予習復習を学習の柱にしていた進学校。まったく合いませんでした。合わせることもできませんでした。

また、片付けがひどく苦手でした。「片付けなさい!」と毎日大声で注意されるのですが、嫌で仕方がありません。言われるたびに苦しみました。なぜ出来ないのか悩み、自分なりに工夫したりもしました。実際には、親にしかられないよう押し込むだけ。それは親も同じでした。片付け方を知らないのです。収めるところが決まっておらず、またその場所がありませんでした。

私はのび太くんのように、子どものころのわたしに、ドラエもんを送ってやれるでしょうか。とてもできそうにありません。私がもし子ども時代のわたしを育ててやれるなら、なんと声をかけてやれるでしょう。邪悪で無知で孤独なわたしに、何と声をかけてやれたでしょう。私は分からないのです。それでもそばにいてやり、観察して、いざなってやることが、できるような気が、すこしします。そんな役目でよかったら、誰の子どもにでも、してやりたいのです。

学校で習いたかったこと

ノンバイオレントコミュニケーション
段ボールコンポスト
ベジタリアン
般若心経と座禅
美しい立ち方
正しい歩き方
ベアフットランニング
身体の使い方(古武術)
英語の語源
英語の多読

発泡スチロールコンポストにときどき水やり

「コンポストがなんか元気がなくなってきた」と家族から報告を受ける。このとき、よく観察してみてみると、原因がみえてくる。

今回は、どうだろう。コンポストの土が固まりになっており、かき混ぜるとカサカサ、サラサラとする。ところどころ野菜くずなどが固まって白い菌が発生している。ちょっと水分が蒸発しすぎたようだ。

ある程度、水分がないと、温度が保てない。また、水が多いのも、匂いが発生したり、温度が上がりきらなかったりする。また水分が多いということは発熱が足りないという目安にもなる。

今回のケースに戻ると、ここは怖がらずに水を足してやります。コンポストに水は厳禁と思っているひとは多いですが、つき合っているうちにほどよい感じがつかめてくる。今日は久しぶりに水をやって、コンポストがほっこりと落ち着いた雰囲気に。すぐに温度も上がり始めてごきげんに。そろそろこの箱も1ヶ月は過ぎたので、熟成期間にしようかと思う。

右足首と左股関節を開発中

右側に比べて左側の股関節が硬いのは高校生のころ初めて意識して以来同じで自覚があったただ努力不足というか何をしてよいかわからず改善に至らずにいた足首も同じく左が劣っていると思いきや状況は変わっていた

自力整体の本のからだのゆがみのセルフチェックで足を伸ばして床に座り足首を内側•外側に倒してその倒れ具合をチェックするものがある試してみたところ予想に反して左の方が柔軟で右側は内側に倒れにくいことがわかった

これには思い当たることがあった2年前のヴィパッサナ瞑想修行時に左足首を下にして座っていたため10日後には左足首がねんざしたような痛みが残り半年くらい痛かったような記憶があるどうやらそのときに開発されたらしいこんな差がうまれていたとは

その後意識しているとしゃがんだときに左足首はすなおに折れているが右足首は少し浮いたようになっていた中学以来外反母趾が右の方が痛かったためかばうようにしていたことも原因のようである

いまは眠る前などに片側の親指にもう一方の親指を引っ掛け下方に引っ張り親指が床までつくようにストレッチしている左は楽に着く1ヶ月して右は徐につき始めたしかしサポートなしの自力となるとまだはるか向こうである足首より股関節の方が手強く精神的なストッパーがかかっているらしい

蓮華座を組むのがに夢ではなくなってきたいまはバーンと足が衝撃で広がってしまっていた昔よりは組んでいられるしかしバランスが悪く左膝が上がってひどく傾いている状態蓮華座を組んで左脚を両手で体重をかけて下に押してやる同時に右の足首の柔軟性も問われる手応えあり膝を抱えて赤ん坊のように揺すってやるハンギングアベイビーも効果あり腰を立てたまま抱えられるようになるのがポイント最初は足が上げたいがために腰が曲がっていたいま右足首は少ねんざチックな痛みありけれど峠を越えるアハ体験済みのおばさんになったわたしは希望を胸に抱えて今日も足をひねる

ということで現在右足首と左股関節を開発中

こんなこと学校では教えてくれなかったなぁ

2014年9月17日水曜日

ヨガで胸が開いて

高校生のころから見守ってくれている友だちに、「背が高くなった?」と聞かれた。「そんなことないと思う。」と答えたが、「何かがちがう」とのこと。見守り期間20年のベテランだ。何かが変わったらしい。「肩幅かなぁ…」それなら思い当たることがある。ヨガの修行の、フィジカル面の効用。

 ヨガの修行が丸1ヶ月経ったとき、ビーチで何気なく撮った写真に見られた変化、『首が長くなった』こと。二重あごはまだ健在なのに、いわゆるデコルテラインがすっきりして見える。2ヶ月目に、いつでも肩がすっと降りて、背筋が自然と通っている。形状記憶された感覚。3ヶ月目には「胸が開く」とはどういうことかが分かってきた。

 肩幅。子どものころからコンプレックスだった。母の『肩パッド』『いかり肩』『肩がリンリン』『なかなか合う服がない』と故意ではないらしい発言にしょんぼりする毎日。トラウマ化の決定打は、運動会や走るシーンで父から毎度放たれる、『肩が走ってたぞ!』とからかうことばと、おおげさなモノマネ。どんなに速く走ったってダメ。お弁当の時間に、小バカにしながら父の演じる、肩とあごを上げて走るわたしはつきもので、自分の肩を呪い続け、いつでも目に見えないアメフト選手ばりの鋼鉄の天然肩パッドを揺らしていた。

 本人としては、姿勢に気を配っていたつもり。“丹田”だって意識していたつもり。地元のヨガ教室に通っていた5年前、肩を下げましょうと言われてがってんがいき、すぐさま後ろで手を組んで下に引き下げる肩甲骨を寄せるストレッチを取り入れたが、なにせ骨格、道のりは険しいと思っていた。

 センチメンタルになりすぎて背筋が丸まってきそうだが、そう、それがいまではちょっとすっきりしているのだから、進歩があるではないか。筋力は修行直後より衰えているが、確かな違いがある。
1)基本的な筋力
2)肩甲骨の柔軟性
3)丹田への意識
4)リラックス=胸の開き
胸の開きが重要。要は、クヨクヨしたり周りを気にしすぎたりすることから解放されること。ありのーままのー♩と歌いながら手を広げて、そのまま手のひらを上に向けたまま静かに降ろした感じ。ここで、肩がイテテとなる方は、常日頃から肩甲骨と肩を大きく動かすよう心がけてみてほしい。

 落ち込みがちの方は、『弱った体がよみがえる 人体力学』という本で、体と心の相互関係のメカニズムを確認してみるとよい。それが目からウロコ。ほとんど写真で解説されており、対処法も知ることができる。

 言い切るのはなんとも酷だが、何もかもがわたしの受け取り方次第、思考にも責任があり、最終的に自分で選んでいる。身体が心を引っ張り上げる。またあるときは、心が身体を引っ張り上げる。自分で励まして、最終的に前向きな判断ができるよう、また背筋を伸ばしてみる。


2014年9月15日月曜日

髪の毛も土へ還ってゆく

インドから帰ってからのコンポストで進歩したことがいくつかあるのですが、『髪の毛をまぜるようになった』のがそのひとつ。ごみ箱に捨てるのを止めました。

朝ブラッシングして出た髪の毛をとるまでは以前と同じ。それを、手のひらをこすり合わせてクルクルと髪を小さなもじゃもじゃの固まりにしてから、コンポストの上でハサミで細かくカットして土に混ぜます。髪が土に戻るのは1年以上時間がかかるそうですが、細かく切っているのでほとんど目立たず、還ってゆく手応えがあります。

ごみだったはずのものが役に立つことを知れば、投入するたび、コンポストがパワーアップするよろこびに胸ときめくのです。部屋のチリや、爪なども。これを、「エーッ?!」と思わなくなり、これらが出たとき「やった★」とルンルンになればあなたも愉快なコンポスターの仲間入りです。

2014年9月14日日曜日

コンポストねずみ続報

コンポストを覆ってゴムバンドでとめている不織布のカバーを一撃、ワンストロークで(?)ひっかいて、ほんのちょっぴり土と生ゴミをカバーの上にこんにちはさせるツワモノ、コンポストねずみちゃん。続報です。

一体なぜ部屋に入って来れたのだろうか。やだなぁ、なんかへんだなー。爆笑問題カーボーイふうにおびえる私。網戸が破られたのかな、それでも窓は閉まっているはず。こわいなー。なんかへんだなー。カーテンを開けてみる。ふつうに、窓が空いているだけだった。しかもネズミサイズに。稲川淳二モードもいっきに幕引き。だんまりパタンと窓閉める、初秋の夜であった。ぐっぱいねずみ。

えっ?力持ちねずみ??どこかのお宅で餅をもらっているのだろうか。だったらなおさらコンポスト荒らしはご遠慮ねがいたい。

お気に入りだったスーパーに行って

 大好きな友だちの顔を見にひさびさに遠出した帰り、お気に入りだったスーパーへ寄った。旬楽膳・地アミ店。自然食品や有機野菜、こだわりの調味料、安全に気を配られた日用品などが揃うまことに見事なスーパーマーケット。

 私は食べることが好きだった。おいしいものをたくさん食べさせてもらったし、働いて得たお金で外食もした。料理も好きで、好物にはとくに凝って研究した。ところが、20代後半から食生活に対する価値観がどんどん変わり、いまではほぼ菜食。おどろくほどシンプルになった。地元のスーパーマーケットに行っても、購入するものが野菜か豆か限られた調味料ほどになり、家族が家庭菜園に目覚めてからは、野菜を買う楽しみもなくなり、あれだけ好きだったスーパーマーケットめぐりも遠のいていった。スーパーめぐりは、ごくたまに旅先で、地物野菜に目を輝かせ、特産品を探してフロアをしつこくうろうろする特殊な趣味に返り咲いた。

 さて、旬楽膳。ここにただ寄りたくて、会員カードもちゃんと探してから来た。どうしても必要なものは別段ない。とにかく神経の行き届いた感じのセレクトで、わくわくする。いいなぁと思いながらも、以前繰り返し買っていたオリジナルの時鮭は、同じ物かもしれないが、メーカーの冷凍物に。すりおろし玉ねぎとにんじんが味わい深いオリジナルドレッシングも様変わり。神と崇めていたオーサワの野菜ブイヨンにも手が伸びず、ほかのものもほとんどいまのわたしには必要なく、なんだか寂しいような気持ち。これらのものも考えてみれば、鮭はほとんど食べないし、オリジナルドレッシングは食べると必ず顔に吹き出物が出来たし、野菜ブイヨンもいまは使うシーンがないのだった。残念だけど、そうなんだ。

 それでもそれでも。こんな夢のようなスーパー、ほかにない。やっぱりフワフワとうれしい感覚に、意識的に生きるはずのわたしはあらら?レジを済ませて、なんだか高級だったなと思い、エコバッグの中身をみる。あまり進んで食べないはずの鮭、肝臓洗浄用だったりんごジュース、誰かにおすそわけしないと食べ過ぎちゃうマフィンを作る用の全粒粉と、青いペットボトルが欲しくて買ったイタリアの水。そしておいしい生絞りワイン。けどこれももうほとんど飲まないのに買ってる。観察しているつもりが、また意識を保てないのであった。かつての習慣、おいしかった記憶の名残が、エコバッグのなか、なんだかくすんで、蜃気楼のように見えた。意識的でいること、どうやったら保てるかと問う。それでも、まあまあ落ち着いていたんじゃないでしょうか。姿勢正しく、なっていくはず。

 家に帰ってきたら、旬楽膳からクーポン入りの手紙が届いていた。ちょっぴりビターにニヤリ。やっぱりまた行きたいところ。かつての習慣だからではなく、つきあえたらいい。親友たちとの関係も、そうだったらいい。今夜も祈って眠る。

2014年9月13日土曜日

コンポストとねずみちゃん

久しぶりのコンポスト運営から調子を取り戻し、さらに涼しくなってきて、快適~♩と思っていたら、ハプニング。どうやら、おともだちが、やってきているらしい!

1日目。ベランダにごそごそという音がする日があって、はてなと思いのぞくと、コンポストにゴムバンドでとめている不織布が、3センチほど裂けている。中央部分。はてな。ねずみ?

2日目。昨日はカバーに穴があいてしまったので、2重にして就寝。またごとごとという音がする。のぞきに行ってみる。今回はセーフ。

3日目。カバーが2重になっていればオッケーと思いそのまま就寝。ゴトゴト。翌朝、4センチほどシュッと裂かれて、しかもカバーの上に小さいトマトの破片がひとつ。やられた。これはやっぱりねずみちゃんの仕業。。。

4日目。外がだめなら、中だ。幸い好気型コンポストは、北海道のような寒い地域でも実行できる、屋内でもにおわないような環境。そしてわたしはコンポスト好きなのでその点はさらにおおらか。部屋に入れてみる。

7日目。数日なんともなかったのに、夜ゴトゴト。朝目覚めると、コンポストのカバーに少量の土が載っている。やられた。この日に限ってイヤホンをして、オーディオブックを眠っている脳に効かせ続けるということをしていて、、オーマイガー。


ということで、ねずみちゃん、どうかもうあきらめてください。好気型コンポスト4年目にして初のハプニング。どうなる。

おでこが痛くなってきたら—頭痛には耳と耳上のマッサージ—

 考え過ぎたり、イライラしたとき、生理前などに、おでこが痛くなることはありませんか?私はけっこうあります。おでこ?というと違うかもしれませんが、具体的にいうと、眉間の上、眉毛の上、前髪の生え際の少し下の鉢のあたり。そして耳からげんこつひとつくらい上のあたり。ひどいときは頭皮全体に、締め付けられるような痛みを感じます。

 もし「おでこが痛いな」「頭が痛いな」と気づいたときには、私は、その痛みに浸らずに、すぐにマッサージに取りかかるよう習慣づけています。マッサージの方法はカンタン。ピースサインをしたときに出ている人差し指と中指で、耳全体を下から挟みます。そしてぐるぐると耳をつかんだまま、回します。10回、20回ほど回せば、耳がホカホカと温まってきます。次に、親指の腹と、曲げた人差し指の側面で耳のはじをつかんで、上の方から外に引っ張って、ピンと放す、引っ張って放すを、上から耳たぶのほうまで順番に行います。想像よりも強めに引っ張るのがおすすめです。いかがですか。私には、頭がふんわりと軽くなり、血流がよくなったような感覚があります。

 耳がゴリゴリ、ジャリジャリというような音を立てるひともいるかもしれません。疲れているときはとくに鳴りますが、安心してください。だんだん和らいできます。また、驚かれるかもしれませんが、足裏のマッサージのように、飛び上がるほど痛がるひともいます。その痛みも、観察して、一度受け入れてみてください。方法としては、「こんなに反応があるのかぁ、これはやりがいがあるなぁ」「疲れがここまできてたのかぁ、気づかなかったなぁ」「こんだけ痛けりゃなんかあるな、効きそうだぞ」という感じです。そして「どんなふうに変わるかなぁ」と前向きに受け取ってみてください。毎日、気づいたときにマッサージをしていると、おどろくほど耳の反応が変わってきます。とにかく一度、この頭がふんわりと軽くなる感覚を味わっていただきたいです。


 耳のマッサージだけでは足りないひとには、耳の上をげんこつでグリグリするマッサージや、鼻筋ユサユサマッサージがおすすめ。またご紹介します。

2014年9月6日土曜日

インドに帰ってからのコンポスト考(2)

 日本では、ごみ回収システムが確立されているものの、それが果たしてゴールなのか?と疑ってみよう。ただ《なかったこと》にしているのでは、と思うことがある。目の前から消えるごみ。どうなっているのか。例えば、きわめて高い温度で何もかもをいっしょに燃やす焼却炉を持つわたしの住む市のごみに対する意識は、田舎なのに、残念ながら低いといわざるを得ないだろう。司書として働いていたときに持ち込まれた、《段ボールコンポストでの失敗に対する悩み》に対して、応えられる資料がなく困った。資料がないならノウハウを知っているひとを探そうと、活動実績の手がかりを市役所に求めた。どうやら近隣の市町村では活動があるのに、当時、わが市にはなかった。電話で対応した環境課の職員は、ひとのよさそうな声で「あー、そういうのあるらしいですね。うちの市ではとくにやってないんですよ。なにか分かったら、やり方教えてくださいね。」と言った。「なにか分かったら、お知らせします。」っていうのを期待してかけたけれど、現実は頼ることができなかった。これはわたしがやってみるしかないと思ったのがきっかけで、それまで興味のなかった《段ボールコンポスト》を始めた。始めてみると、小さな箱のなかで、立派に循環が繰り広げられていくではないか。いれてもいれてもいっぱいにならない、摩訶不思議な、すてきな箱であった!

 前置き(そう、前置きなんです)が長くなったが、『生ゴミ』を捨てるのが苦痛になったわたしは、すぐに《段ボールコンポスト》を思い出した。しかし、いつまた旅に出るかもしれないと思い二の足を踏んでしばらく苦痛が続いた。部屋から裏山にスイカの皮をえいやっと何度か投げてみたりもしたが、「いま何してたの?」と家族に聞かれたりして、ドギマギ。胸を張ってスイカの皮を自然に還したい…。また旅に出るそのときには土に埋めてやればいいのだとアハが起きて(こんなことを迷うくらい、精神がヒヨヒヨとしている)やっぱり考えていちゃいけないと、再開。これまた、ドラマが繰り広げられた。

インドから帰ってからのコンポスト考(1)

 インド滞在から帰って、あれこれ考えすぎてしまったわたしは、放心状態でなにも手に着かない日々を送っていた。地に足をつけるきっかけを探すなかで、身近なところで、『自分の食べたいものを作るよろこび』を思い出し、なぜか和食ではなく、あれだけ食べたインドカレーを毎日作るようになるのだが、さっそく問題発生。そこで出た野菜くずを捨てるのが苦痛になった。皮や茎をできるだけ食べても、玉ねぎの皮、トマトのヘタなど、どうしても出る。実は、家族が出す生ゴミを見るのも、久しぶりにショックだった。

 インドにいる間、ごみについては本当に考えさせられた。常につきまとった。とくにプラスチックごみが散乱する状態は強烈。プラスチックごみが《どこにもいかない》のだという当たり前なのに『クリーンな日本』では見えにくい事実を突きつけられた。先に便利なものを使わせてもらったわたしたちが変わらない限り、彼らにそれを使うのを止めよというのは無理だ。責任があるなと思った。

 ところがだ。路上に紙ごみ、プラスチックごみがわんさかしている恐るべき光景が広がるインドでは、《どこかにいく》ごみがあった。いわゆる『生ゴミ』と呼ばれる野菜くずや食べ残しは、意外と土に還ったり廻ったりしていた。放っておけば当たり前、といえばそうだけれど、良い悪いを超えて、なかなか勉強になった。

 南インドのチェンナイでは、例えばスイカを食べたとき、裏庭があればそこに窓からポイッと投げて自然に還したり(笑)、お世話になった家庭では、バケツにごはんのとぎ汁を入れていたので、さすが水を大切にしてる、エコじゃん!と思い「植物にやるの?日本でもよくやっているよ!」と言うと、「牛にやるのよ。果物の皮とかいれてね、飲み物を作ってやるの。」なんと、バナナの皮などを米のとぎ汁に入れ数日寝かせて発酵させたものを、朝におなかをすかせて玄関先にやってくる牛たちに振る舞っていたのだった。驚きだった。「栄養があるのよ。」とアンティは言っていた。ほかには、街中ではその職業のひとが手押し車で生ゴミを回収しているのを何回も見かけた。また、フォートコーチンでは木曜に生ゴミ回収車が走っていた。生ゴミの行き先を尋ねなかったことを後悔している。

 そしてインドでは食べ残しが少ないように感じた。そもそも庶民の家には冷蔵庫がなかったりする。冷蔵庫があっても、日に1度2度停電したりする。牛乳や野菜は、その日に使う分を量り売りで買い求め、使い切る。保存食は漬け物くらいで、ほとんど作り置きをしない。残飯は犬や牛がおこぼれにあずかる。飼い犬のカルパはチャパティが好物。残ったごはんはあまり食いつきがよくないが、木からリスが降りてきて、口いっぱいにごはんを詰めて素早く駆け上がり木の上でモグモグ。スイカの皮は、ときに塀の上で乾かされる。乾かすという名目のうえに、カラスにつつかせてやる。翌日にはその皮はつつかれ、少しひからびて小さくなり、裏庭行きになる。ココナツの外側の繊維質な皮は、とっておく。屋外で火をおこすとき、着火材に使われる。有機ごみについて、アンティはかなり優秀なひとだった。
 
 道端にあらゆる種類のごみが山になっていることももちろんあった。生ゴミもあれば便器までころがっている。チェンナイでは牛たちがゴミをあさり散らかして、いっしょにビニール袋も食べてしまうような状態。赤土の道に捨てられたごみは、還るものは還ってゆく。しみこんでゆく。しみこまないときもある。大雨が降れば、道は川のようになるのだ。昨日まであそこにあったお菓子の袋が、薬のチューブが、犬の糞が、全部水の下だ。そこを、サンダルが流されないようにと、裸足で歩くこともある。フォートコーチンで見た、普通の暮らしがあるところの用水路はとんでもなく緑色で、ときには黄色、強烈なにおいを放つ。ぎょっとしつつも自分の中に、そうだよなと受け入れる気持ちがあるのが発見だった。なにがどうなってるのと思う反面、ただ、どんなに環境が悪くても、一応自然に戻るものは戻る環境ではありますよね、と考えさせられた。日本は、どうなっているのさと。見た目クリーンではあるけど、日本は、胸を張ることができる?