2015年4月19日日曜日

犬といっしょに眠るトレーニング中

うちの犬が自由になれるよう、協力できることを探して実行中。

夜はいっしょに眠るトレーニングをしている。最初はケージの横に寝袋を敷いて、数時間眠るのから初めて、いっしょの部屋で眠るのを数時間とお互いに慣らしていった。

私は3年前までひとの寝息にトラウマがあって、ひとと一緒に眠るのが困難だったけれど、ヴィパッサナー瞑想の合宿で克服した。それからはひとのいびきもヨガのアシュラムでは(Om オーム:聖なる音)に聴こえたり、あまり大きな音だと眠れないけれど、怒りやパニックには、ならなくなった。このことはまた別に書くといいと思う。

犬の彼はというと、夜中なのに部屋から脱出しようとしたり、食べ物を探したり、うろついたり、ベッドをくわえてふりまわしたり、落ち着いて横たわったと思ったら前足でねえねえとわたしにお腹のマッサージの催促を夜通しし続けたりした。何度も中断した。ダメかと決めたくなるけれど、ただ犬はそれまで経験したことがないだけなのだ。ここまで彼に押し殺させてきたことを、目の当たりにしている。強烈な押しつけの反動。気が遠くなるような忍耐の日々を彼は受け入れそれでも私たちを愛している。裏切られても怒られてもうそをつかれても、放っておかれてもなお、彼は私たちを愛する。彼はことばもわかるし野菜も好きで、本当に賢くて、気だてが良くて、うつくしい心を持っている。彼はなんら悪くない。そのチャンスが与えられなかっただけ。責任がわたしにもある。それを深く理解して、もう1回、もう1回と、やってきた。自分が未熟なせいで、怒れてきたりして中断して、犬も自分のことも見放しそうになる。状況がはっきりするたび、切なくなるたび、解放を誓う。

今月に入って、わたしの部屋で眠る初日は床に犬のベッドを置いて別々に寝て、1時間に1回は部屋に散らかったもので遊び出す。それは散らかしているわたしが悪いので、原因が彼にないことがどんどん浮き彫りになる。謝ってまた挑戦する。ここ数日はベッドでいっしょに眠るのを解禁した。1時間に1回遊ぶのから、1日に数回になり、どんどん少なくなって、今日は熟睡している。スペースと布団を占拠されるのも、いいバランスになってきた。

順番に彼の経験を増やしていく。私たちはそれを怠ってきた。彼を見ていると、自分がされたことを思い出して、苦しくなる。こうやって対応されてきたんだと。(これは育てるとはいわないとかいう想いで胸が締め付けられる)これでは無理でしょう?と訴えたくなる。その苦しみを感じるだけ、訴えるだけの状態から一歩進むことを、わたしは学ぶ。わたしのトレーニングでもある。諦めてもまだ、もう1回。これまでこういうことをしてこなかったのだと、はっきりわかってきて、犬とともに、生き直しをしている。

Giftというこのセリフのないショートフィルム。
ハンガリーのDeadLens Picturesというスタジオが撮った、
たった4分4秒の映画。


ディレクターズカット版を発見。
(こちらのほうがよりわかりやすいのでぜひ)

2015年4月15日水曜日

春の小道で違和感ふたつ

このあいだ、犬の散歩中に違和感を感じる出来事がふたつあった。

ひとつは、雨上がりの朝に通ったことのない川沿いを犬と歩いていたときのこと。増水した川の流れと散りかけの桜のコントラストに目をやっていると、川べりに赤いものがごろごろと目に入った。よく見ると黒いホースがのびている。消火器の不法投棄。こんなことあるんだ。市のホームページを調べたが、税金の払い方ばかりが載っていて、どこへ連絡したらいいのかわからなかった。消防本部のホームページは、なんだか10年くらい前の個人ページみたい。

もうひとつは、いつかは青々としていた学校近くの空き地が石がむき出しで荒涼としていた。春なのになんだか寒々としていやな雰囲気で、なにかがおかしいと思いながら歩いていた。しばらく歩いた斜面に今年初めてのわらびを見つけたので摘んでいると、おじさんから声をかけられた。「こんにちは」「すみません犬がいますが通れますか?」「いえ、つくしを採っているんですか?」「あ、わらびです」「そうですか、摘むのはそのあたりだけにしてください」「…?」「こちら側は採らないでください」「というのは…(あ、おじさん、消毒のタンク斜めがけしてる)除草剤の?」「ええ、こちらはもうかけたので」「声をかけてくださってありがとうございます」でも、がんばりのベクトルが違うと思うんです。なんか、悲しくないですか。おじさんの後ろ姿に無音で問いかける。いざそういう現場を目の前にして、何もいえないし、提案できないことに悲しくなる。何か解決できる方法はないかしら、と考えながら、自分の非力さにいまここにいることを見失いかけて、急に冷えてきたように感じて、わらび取りを切り上げた。どうにかならないかな。なんかすごく悲しい。それでも、おじさんのやさしさなんだよね、声をかけてくれたのは。個人と組織の間に生じるジレンマなんだろうか。

今日消火器の捨ててあったところの近くへ行く用事があったので、見てきたら、なくなっていた。確かにここだったかしら?と思うほど、あっさりとなくなっていた。どなたかありがとうございます。あれでよかったのかな、と思っていたので、大丈夫だったと知って安心した。

ちゃんと通報できなかったんじゃないかとか、学校に除草剤が撒かれることになにも言う立場でないんだとか、まともに生きられていないという感覚が自分を責める。それでもまだ生きている。

私のできることを考える。常にそのときどきのベストを尽くすというのなら。自分のできる方法で知らせることができてよかったではないか。「わらびを採るひとがいるんだな」という印象を、おじさんの意識のどこかに持っていてもらえるように祈る。もっとサスティナブルでエコで美しい方法がないかどうか思いを巡らす。

鉛筆削りの直し方−たった8円で鉛筆削りが直る

今日は、鉛筆削りを自分で直すことができたので記しておきたい。

朝のページを書いている時、今日は鉛筆で書きたいとふと思った。鉛筆を出してきて、いざ書こうとすると、やっぱりとがらせてから書くのが、儀式っぽくていい。鉛筆削りを出してくる。私の鉛筆削りは、手回し式のゴロピカドン。小学生になるころ買ってもらったものだ。高校に入ってくらいから使うことがなくなり、ずっと放ってあって、捨てられてもおかしくないほど存在感が薄れていた。目に入って「処分しようかな」と手に取ると、見た目以上にずっしり重くて、おや、と思う。特別のお気に入りだったなあ、などと思う。そんなことを繰り返して、なんとなく残っていたものだ。

鉛筆を常用する職場に勤めたとき、その軽さや指にやさしい当たり方にまた鉛筆に愛着がわいた。普段から常用しようと思い、いざ鉛筆を削ろうとすると、少ししか削れない。削れる音も鈍いというか、軽い。鉛筆がくるくると回って、削れていないのだった。鉛筆を回らないように固定するゴムが劣化していた。買い替えようかなと考えたが、いまの市場にこれほどにしっかりとしたものはあまりないように思えた。木の部分がとてもなめらかに削れ、余分にトントンにもならず、絶妙だ。職場の電動のものはちょっとだけ浅いし、手回しのほうはすぐあっちこっちへ動くのと、少しだけトントンになりすぎる。ゴロピカドンのは良い刃が使われていると感じた。指で鉛筆を押さえていれば削れるので、そのときはそのままにしていた。あれから数年が経っていた。

先日も断捨離しているとき、もうこれはいいかな、と鉛筆削りを眺めながら思った。修理しようかと思ったけど、支える側のツメに気づけず、これは簡単には外れない。直すようには作られていない、と判断した。その日は、いま思うと元気がなかったのだろう。捨てる元気すらなくてよかった。やっぱりあの重さがポイントだ。

朝のページを中断して、洗濯をした。洗濯ネットが破れかけていたが、今日はハデに破れている。出し入れするたび、なんだか荒んだ気持ちになっていたけど、今日は入れる気にもならない。家族はこれを直す余裕もないと思っていたりするのかな。直るとも思わないのかも。放置、悲しいな。こうなるまで放って置いたのは私も同じか。私はミシンのところまで行って、待ち針も打たずに縫い合わせた。簡単だった。あっというまに直った。これからもよろしく。

ひとつ問題を解決して部屋へ戻り、清々しい気分でくるくる回る鉛筆削りで削って、さあ書くぞの儀式をしてからモリモリと書いていると、製造番号が目に入った。NO.7000-GO。ななせんばんタイプの、GOろぴかどんってとこか。80年代のにおい。かわいい。©1982, 1984 SANRIO CO. LTD. サンリオが作ったのではなくて、企画サンリオ、か。MADE IN JAPAN。作った会社は『COLLEEN』。

そうだ、部品取り寄せられるかな?と思い調べると、COLLEENはコーリン、と読むことが分かった。懐かしいな。なんとなく覚えがある鉛筆メーカー、コーリン鉛筆株式会社。1997年に倒産し、2007年にタイに残った現地法人から輸入する形で復活したようだ。倒産か、それなら部品を取り寄せるより、簡単な直し方があるかもしれない。よく見れば、簡単に外せそうだ。ゴムさえ手に入れば。どんなゴムにしよう。

前置きが長くなったが、鉛筆削りは簡単に直せた。用意するものは、リーチが2cmほどあるドライバーと、ペンチ。私はマイナスドライバー1本と、ペンチでできた。それから、鉛筆をかんでいてくれる新しいゴム。鉛筆をかんでくれているゴムのついた部品を持ってホームセンターへ行き、ゴムチューブの売り場へ。穴の大きさは9mmくらいがいいかなと思ったけれど、なかったので10mmで手を打つことにした。黒い耐油性ゴムチューブは売っておらず、ちょうど自分がイメージしていたシリコン製のチューブが手に入ってよしとした。10cmから買うことができて、税込み48円。

まず、鉛筆削りのハンドルの両脇にある穴をのぞくと、ねじがある。それをドライバーで外す。すると鉛筆をかむ側と、削る側が別れる。バネが1本ずつ仕込まれていた。カシャーン!と勢いよく巻きもどるのは、この子らの働きだったのか。

鉛筆をかむ側の内側の4隅に、ツメがあるのがわかる。それをマイナスドライバーで浮かせて、外す。反対側から鉛筆をかんでくれる部品が3つ、ぽろぽろと落ちてきた。乳白色のプラスチック製だった。

シリコンチューブを5mmほどの厚さでカットする。鉛筆をかんでくれる部品に付けかえて、再びセット。セットする方向が分からなくなるかもしれないが、私の鉛筆削りの場合は、このプラスチックの部品のゴムを付ける方の反対側に丸い突起があり、それを収めるスペースが鉄板側にあったので、わかった。

ふたをして、ツメを元に戻す。このときペンチをつかった。ペンチで傷つけぬように、鉛筆を入れる側に当て布をするとよい。

さっきのバネを取っ手の側から差し込んでから、鉛筆をかんでくれるほうのパーツを差し込む。ねじで止めて、完成!

シリコンゴムの内径もピッタリ。使ったゴムは約1.5cm。7.2円分。48円で鉛筆削りが直った。鉛筆削りは何ごともなかったかのように、トントンに削ってくれる。すごくうれしい。また私の仲間がひとつよみがえった。本当は何もかもが、私の味方なのだ。

2015年4月11日土曜日

ひさしぶりの鼻水アタック、頭痛つき

今日も雨降り。
ずっと花粉症の症状が出なかったので、治ってしまったのかシーズンが終わったのかと思っていたけれど、夕食どき前後どちらかだったか、食卓についたくらいだったか、気づいたらものすごい鼻水、ときどきくしゃみ、目のかゆみ。これはなんでしょうか。

鼻水はどんどん水状になり、頭痛までもがやってきた。どうも身体が激しく排毒活動をしているらしい。

原因を考えた。3時のおやつにホワイトチョコのついたビスケットを食べたからか。ポレンタ作ったときにオリーブオイルとバターを入れたからか。頭痛、頭皮が固くなり、毛穴が油でつまったような感覚。頭を洗ってもまだ頭痛。鼻の毛穴が炎症をおこして腫れている。油性の毒?家族からは特別寒いからではないかとの意見。この3日くらい寒かったからなぁ。PM2.5が強い日は顔がチクチクするのと、目のかんじが花粉と違う刺激のあるかゆみに感じる。今日のは、ちょっと違う。

インドから帰ってきたとき1ヶ月くらい常に水状の鼻水が出続けたり、たんが出たり、アトピーみたいになったり、手の湿疹、身体のもっているさまざまなデトックス機能を実際に体感して、その機能を信用している。今日のは久しぶりに強いし、思い返せば午後にはずっと落ち着かずそわそわしていた。理由を知りたい。放射能とかかもしれない。

できる対処法として、風呂に入りあたたまる、頭を洗う、ブラックシードオイルを摂る、湯たんぽを入れて眠る、明日はより小食にする、葉っぱや水でミネラルを摂る。旅行から帰ってきた家族のおみやげがあるからむずかしいかもしれないけど、出来る範囲のベストで。

昨日仕込んだ豆乳ヨーグルトが、滑らかで、スプーンですくっても壊れないくらいの絶妙な固さですばらしい。玄米乳酸菌は2回目の玄米で作ったもので、いい感じに植物性乳酸菌の(すぐきの漬け物みたいな)酸っぱみが感じられる液。豆乳800ccに乳酸菌200cc、ヨーグルトメーカーで7時間保温後今回は冷蔵庫に入れずに一晩寝かせた。毎回コンディションがちがうのがおもしろい。

2015年4月9日木曜日

コーヒー豆トースター焙煎2回目

ううむ1回目はビギナーズラックだったのか。慎重さと繊細さが足りなかったようだ。2回目ははじく必要のある豆が多かった。先回自分で書いておきながら、生豆の量が多くなってしまったようで炒りきらない豆が出たので途中で減らした。

ただ、50℃洗いのほうは手応えありで、洗ったあとの水は濁った土色になり、洗った後の豆から甘くて丸い豆の香りがしてきた。袋から出したときは少し青臭い印象というか、いうなれば雨の降る前の匂いというか。

それから50℃洗いをした直後、ざるにあけて、なぜかサラダスピナーで水気を飛ばそうと思ってしたのだけど(何でふきんとか使わなかったのかはナゾ。少し眠くて繊細さが行方不明だったか)洗い立てのコーヒー生豆たちが、レバーフラッシュ(肝臓洗浄)したときに出てくる柔らかい胆石そっくりに見えて、「大漁、大漁♩」とほくそえんでいた。私はこんなささやかなことで楽しめてエコだな。

トースター焙煎は今後も要研究。

玄米乳酸菌風呂が、とろとろのお湯になって気持ちがいい。久しぶりに杉の入浴剤『杉っ子』を作ろうかなと思っていたところに良品が。杉っ子は杉っ子で、杉っ子を入れたお風呂に入っているときに、今年流行のスギ花粉症の根治療法「舌下減感作療法」みたいに使えそうだとふと思って必要性を感じている。あの温まりかたは、魂がふるえるというか、例えば自作杉っ子入りの足湯は誰かに愛をあげられる方法のひとつだと思う。

2015年4月8日水曜日

豆乳ヨーグルトと犬といっしょに食べる

今朝起きたら、玄米乳酸菌のボトルがひとつかしげていて、わたしまでおや?とかしげた。よく見ると、表面に泡が立っていて、ピサの斜塔みたいに傾いている。キャップをゆるめるとブシュっと元気よく底から泡が立ちこめた。この子は、玄米乳酸菌を1回仕込んだあとの玄米に、出来上がった乳酸菌と水と黒糖と塩をまた足して2回目を試してから2週間ほど経って急激に成長した。酵母が多いのかな?要勉強だけど、雨続きで桜などじっくり愛でることができない日々だったけれど、いよいよ春本番だなと実感したできごと。

犬が豆乳ヨーグルトを気に入ったので、いっしょに食べている。虫歯で奥歯を抜いたのだが、もっと早くに乳酸菌を取り入れていたらよかったね、ごめんね。からだにスプレーしてあげれば、においもとれて、毛はふんわりサラサラになる。何より、嫌がらないのが安心して使える。家族が小麦粉でできた固いビスケットをごほうびのおやつにやっているが、それが虫歯の原因ではと思っているので、できたら止めたい。ヨーグルトを導入してからうんちがあまりにおわない。かちかちになりにくく、快便のご様子。人間はどうかというと、においは確かにより少なく(ほぼ菜食なのでもともと少ないが、より少なくなった)あと、気のせいかもしれないけれど、花粉症の症状がほとんど出ていないように思う。雨が続いていたからかもしれない。要観察。

コーヒー生豆をオーブントースターで煎る

先月思いついて注文したコーヒー生豆。いよいよその出番がやってきた。注文の際にネットであれこれ調べたとき、ものすごく煙が出るだとか、トースターに油がつくので専用にしたほうがよい、など読んで怖じ気づいたのもあって、屋外で土鍋でもつかって煎ろうかとも考えたが、初心貫徹、初回はやはりオーブントースターでいってみることにした。考えているとできないからと思い、むんずと生豆の袋を破り、大さじですくってみたら、いきなりコンクリート片が出てきて、気合いがしぼみかけたが、そのまま断行!そうだ振り返っている暇はない。(生豆がもう手元に2kg分あるのだから!)大さじ6か9か…わすれてしまった。ハンドピックはどれだけやるかと考えたが、明らかにおかしい豆2つ3つはじいただけ。

結果から言えば、とてもうまくいったと思う。2日以上寝かせて挽いてみると良い香りだし、なにより新鮮。湯に落としたときの元気がいい。煙の件はそう心配することもなさそう。ゲルソン療法のコーヒー浣腸に使うコーヒー豆は、中煎りか浅煎りが良いとされているので、モクモクとけむりが出るほど煎ってはやり過ぎになってしまう。豆の色むらも出たが(豆の大きさや、火に当たった具合で)私としては許容範囲。慎重にトースターの前に張り付いていればなんとかなる。

トースター付属のスチールトレイにアルミホイルを敷き、コーヒー豆を被らないくらいの量敷きつめた。煎ってみるとコーヒー豆は少し縮んで小さくなりトレイのスペースが広く感じたが、ほどほどの量がよかった。木べらでときどき豆の位置を入れ替えてやったり、ミトンをしてトレイを回してやったりしたが、豆の量が多いと漏れるため。

途中でコーヒー豆が“脱皮”し始めるのが面白かった。見事にどの豆も、薄皮がはがれてくる。この皮のことをコーヒー業界では『チャフ』というらしい。コーヒー焙煎愛好家の犬の名前とかでありそうだ。チャフ。

次回の注意点を記しておきたい。ひとつは『焙煎を始める前に、生豆を50℃洗いすること』。今回結局何となくえいや!で始めてしまったので、舞い上がって生豆を洗わなかった。思っているより汚れているから洗うといいという情報をあとで読んだので、これを取り入れたい。あれだけ煎れば(チャフがとれるのとかもみると)悪いものはバーンし尽くしてる(急にルー大柴)気もするとざっくり思ってみたり、いやいや、どうせなら大好きな50℃洗いでいってみたい。

『ふるい』をつかうととても便利そうだ。我が家のトースターは下にも熱線がついているので、より効率よく焙煎できるだろう。また、トレイが角のため、木べらで触ってみたところでうまく混ざらない。今後何度かやってみて、導入を検討しようと思う。近所の100円ショップを一度のぞいてみるつもり。

それにしても大病している人にはコーヒー豆を煎るのもむずかしいかもしれないなと思うけれど、いまの私にはまたひとつ、DIY的に解決することができると分かってほっとできたことが増えた。みんなの負担が減って、すこやかに穏やかに過ごせますように。祈っています。