このあいだ、犬の散歩中に違和感を感じる出来事がふたつあった。
ひとつは、雨上がりの朝に通ったことのない川沿いを犬と歩いていたときのこと。増水した川の流れと散りかけの桜のコントラストに目をやっていると、川べりに赤いものがごろごろと目に入った。よく見ると黒いホースがのびている。消火器の不法投棄。こんなことあるんだ。市のホームページを調べたが、税金の払い方ばかりが載っていて、どこへ連絡したらいいのかわからなかった。消防本部のホームページは、なんだか10年くらい前の個人ページみたい。
もうひとつは、いつかは青々としていた学校近くの空き地が石がむき出しで荒涼としていた。春なのになんだか寒々としていやな雰囲気で、なにかがおかしいと思いながら歩いていた。しばらく歩いた斜面に今年初めてのわらびを見つけたので摘んでいると、おじさんから声をかけられた。「こんにちは」「すみません犬がいますが通れますか?」「いえ、つくしを採っているんですか?」「あ、わらびです」「そうですか、摘むのはそのあたりだけにしてください」「…?」「こちら側は採らないでください」「というのは…(あ、おじさん、消毒のタンク斜めがけしてる)除草剤の?」「ええ、こちらはもうかけたので」「声をかけてくださってありがとうございます」でも、がんばりのベクトルが違うと思うんです。なんか、悲しくないですか。おじさんの後ろ姿に無音で問いかける。いざそういう現場を目の前にして、何もいえないし、提案できないことに悲しくなる。何か解決できる方法はないかしら、と考えながら、自分の非力さにいまここにいることを見失いかけて、急に冷えてきたように感じて、わらび取りを切り上げた。どうにかならないかな。なんかすごく悲しい。それでも、おじさんのやさしさなんだよね、声をかけてくれたのは。個人と組織の間に生じるジレンマなんだろうか。
今日消火器の捨ててあったところの近くへ行く用事があったので、見てきたら、なくなっていた。確かにここだったかしら?と思うほど、あっさりとなくなっていた。どなたかありがとうございます。あれでよかったのかな、と思っていたので、大丈夫だったと知って安心した。
ちゃんと通報できなかったんじゃないかとか、学校に除草剤が撒かれることになにも言う立場でないんだとか、まともに生きられていないという感覚が自分を責める。それでもまだ生きている。
私のできることを考える。常にそのときどきのベストを尽くすというのなら。自分のできる方法で知らせることができてよかったではないか。「わらびを採るひとがいるんだな」という印象を、おじさんの意識のどこかに持っていてもらえるように祈る。もっとサスティナブルでエコで美しい方法がないかどうか思いを巡らす。
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